特定非営利活動法人 古仏修復工房

古仏修復工房は文化財の修復を通して日本の文化を守り、後世に伝える活動をしています。


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1修復 参考例

古仏修復工房では古い像の雰囲気を損なわない文化財修理を基本にした修理を行っています。
ここでは特に印象的だった像を紹介させていただきます。


仏像


・承天寺 木造 聖観音立像
制作年代/平安時代(町指定文化財)
法量/像高  183.6cm  総高 235.6cm

 修理完了/頭部から胸/修理前
   

 桓武天皇の皇女の守り本尊と伝えられる像。地方作ながら平安時代末の作風が強く出ています。
面部や胸の黒い部分は中世、兵火に巻き込まれた際の焦げ跡ですが、そういった焦げ跡でさえもこの像の魅力として見えるような気がします。

 正面を中心に割れと腐朽がかなり進んでいました。修復としては元の木肌の雰囲気が崩れないように気を付けながら腐朽部分を復元しています。胸の瓔珞などもほぼ新造ですが、色味を合わせて違和感なく仕上がるようにしています。




・平光寺 木造 阿弥陀如来坐像(伝薬師如来坐像)
制作年代/鎌倉時代(市指定文化財)
法量/像高  86.4cm  総高 216.6cm

 修理完了/安置風景/修理前     
     

 薬師如来として伝承した像ですが、胎内に墨書がかかれており、印相からも元は阿弥陀如来として造像された像です。明治の廃仏毀釈のおりに、複数の寺院がひとまとめにされたのですが、その際に別の寺院から移動された像であることが胎内墨書により確認できました。

 修復については、戦後に施されたと考えられるカシュー漆の除去が中心でした。また、台座については蓮弁を適切な位置に葺き直し、敷茄子と反花より下は新造し、この時代のデザインに沿った形に修正しています。




・平光寺 木造 二天立像のうち阿形像(持国天)
制作年代/鎌倉時代(市指定文化財)
法量/像高  102.6cm  総高 131.6cm

 修理完了/修理前/墨書(修理銘)
    

 明治時代の修理銘によれば日光、月光菩薩として薬師如来の脇侍として安置されていたようです。あるいは廃仏期に別の寺院から運ばれてきた可能性もあります。作風としては正統的な仏師によるもので、鎌倉初期の作になります。

 長期にわたって保存環境が悪かったのか、何度もの補修を受けていました。墨書などの記録にあるだけで、江戸時代以降、3回の修理を受けています。記録にない修理も含めれば相当数の補修を受けているのですが、主要部材については、ほぼ、当初材が残っているのは幸運なことでした。細かな補修箇所が多く、そうした補修箇所も一つ一つ修理作業をおこなったため、修復に非常に苦労した像です。




・泰寧寺 十一面観音坐像
制作年代/南北朝時代(市指定文化財)
法量/像高  42.6cm  総高 102.6cm

 修理完了/台座と光背は新造(古色なし)/修理前
    

 現在、安置されている寺院は元々佐竹氏関連の寺院で、現在の茨城県城里にあったものが、戦国期に佐竹氏の勢力拡大に伴い今の石岡市旧八郷町に移転してきたものです。佐竹氏関連の寺院には院派仏師の作が多く、本像もその一体と思われます。地域の歴史を象徴する像です。

 修理前と修復後の印象が大きく変わった像です。数十年ほど前に本堂の改築に伴い、仏具屋さんを通して修理をおこなったとのことでしたが、実際に修理された方が仏像には詳しくなかった方のようで、十一面観音から聖観音へと改変されていました。また、新作に見える姿のため、自治体の文化財調査からも漏れてしまっていました。今回の修復で、元の十一面観音へと姿を戻し、また後に塗られたカシュー漆を除去し、古い当初の姿へと戻すことができました。その修復後に院派仏師の可能性が高いとの評価で、市の指定文化財に登録されました。




・毘沙門堂 毘沙門天像
制作年代/鎌倉末〜室町時代
法量/像高 104.7cm  総高 150.1cm

 修理完了/頭部と胸/修理前  
    

 NPOとして、修理補助をおこなった像です。毘沙門堂と呼ばれる集落管理のお堂に安置される仏像で、震災後、お堂が破損したため、現在は近隣の寺院に仮安置されています。いずれは復興が進み、元のお堂が再建されることを願います。

 修復前に博物館の調査を受け、幕末の作であろうとの調査結果だったそうです。解体作業を進めた結果、墨書などは出なかったものの、その構造の古さと、作風から中世に遡るのは間違いないと思われます。教育委員会に連絡し、修復作業を見てもらい、再度、県の博物館による調査が行われる予定です。確定すればこの地域としては最古級の像になります。修復によって地域の文化財を掘りおこした貴重な例として印象深い像です。




・東福寺 阿弥陀如来坐像
製作年代/江戸時代
法量/像高 71.5cm  総高 164.5cm

 修理完了/修理前                   
   

 名は分からないものの在地の仏師の作です。材を比較的、贅沢に余裕をもって造っているのが印象的でした。修理銘が幾つか残っており、大切にされていたことがうかがえます。 

 光背の破損が目につきますが、むしろ台座の損傷状況がかなりひどく、台座の形を保っていたのが奇跡的な像でした。どうやら、安置されている須弥壇に外とつながる穴が開いてしまったため、台座で虫が繁殖したことが腐朽がすすんだ原因のようです。保存環境が整わないとせっかく修復が完了しても傷みやすい原因になります。今回はすぐに対応していただき納めることができました。




・大師堂 阿弥陀三尊像
制作年代/江戸時代
法量/像高 61.1cm  総高 93.2cm ※阿弥陀如来像

 修理完了/修理前      
    

 NPOとして、修理補助をおこなった像です。古くに寺院が廃寺になったため、現在は大師堂と呼ばれる集落管理のお堂で管理されています。大師堂というと、弘法大師が本尊として安置されるのが通例かと思いますが、現在はこの阿弥陀三尊が本尊として祀られています。とても丁寧な彫の像で、螺髪についても一つ一つ巻が彫り込まれているほどです。

 中尊については左手先がなんとか残っていたため、阿弥陀如来と確定できました。(当初、外れていて手先はなかったのですが、厨子の中から探し出しました。)それにより、両脇侍も観音、勢至菩薩と判明しました。また、両脇侍とも僅かにかがんだ姿をしており、来迎の阿弥陀像かと想像できます。来迎の阿弥陀というと浄土系の寺院が思い浮かぶのですが、この廃寺になった寺院は真言系であり、本来は安置されていなかった可能性があります。近隣の浄土系の寺院が廃寺になり、移動されたものと考えるのが自然かもしれません。苦労を感じさせる像ですが、今は集落で大切に管理されています。




・円応寺 三宝荒神
制作年代/江戸時代
法量/像高 25.4cm  総高 39.5cm 

 修理完了/修理前 
   

 三宝荒神は日本仏教独自の尊像で、火と竈の神として祀られる像です。初め、馬頭観音かと思っていたのですが、脇手の数が合わないことと、残っている左手真手が印を結ばず、何かを握っている形だったのが気になっていました。結果、三宝荒神に気づいたのですが、左手が残っていなければ、馬頭観音として修復したかもしれません。仏像は本来の像容から離れた像も少なくないため、マイナーな尊像についても気をつけなくては、と気づかせてくれた像です。





仏像以外


・笠原子安神社 神馬像
制作年代/江戸時代 ※安永二年(1773年)
法量/最大高  146.5cm  総高 160.1cm

 修理完了/修理前 /墨書(像立銘)
   

 本物のポニーぐらいは充分にある大きさです。何度か修理されているようですが、前回の修理は人形師が修理したものか、桐粉と膠を混ぜてパテとしたものが大量に使用されており、かなり悲惨な姿となってしまっていました。厩に安置されるとはいえ、外気が入りますから、あまり長いことはもたなかったかもしれません。たてがみも本来の馬毛から麻に変更されており、思うに修理費用が足らなかったのではないかと思えます。今回の修復では後の補修箇所を撤去し、足らない部材は新造しています。たてがみも本来の馬毛を使用しました。
また、四肢のままだと不安定なため、台座も新造しております。




・総社宮 随神像(左大臣)
制作年代/江戸時代 ※延宝八年…1680年
法量/座高  99.4cm  総高  135.2cm

 修理完了/頭部/修理前
   

 ほぼ成人男性と同じ大きさの随神像です。神社の随身門に安置される像で、仁王像と同様に阿吽で表現されます。役割も仁王像と同じく、社寺の保護、ボディガードです。また、お雛様を見ればわかるように、多くの場合は右大臣、左大臣で老若に作り分けますが、本像は右大臣、左大臣ともに筋骨隆々とした若い男性の姿で表現されるのが印象的です。

 部材がばらばらになってからだいぶ時間が経っていたのですが、主要部材が現存していたのは幸運でした。矢は本物の矢を使用しています。弓についても正確に復元したかったのですが、随身門の大きさの関係上、門に入らなくなると困りますので、可能な範囲の長さに納めました。迫力のある像だと思います。製作者は京仏師「寂幻」この寂幻の名は関東で修復の仕事をするとたまに見聞きすることがあります。この神社の近隣の大きな寺院の仁王像もこの寂幻の作と判明しており、仁王や天部像が得意だったかと想像してしまいます。




 

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